「人類の愚行を二度も経験した」。長崎県五島市玉之浦町の中里益太郎さん(88)は大きな決断をした。長崎原爆の被爆者であると同時に、国内最大とされる食品公害「カネミ油症」の被害者であると明かし証言していくと。油症は今年が発覚から50年。米寿で迎えた被爆から73年のこの夏は「平成」最後の8月9日。「時代の生き証人」としての覚悟が背中を押した。
「火の海となった街並み。男女の区別もつかない焼け焦げた何体もの遺体。『助けてくれ』と叫び続ける人たちの声。あの地獄絵図を忘れることは一生ない」
15歳だった。爆心地から約2キロの長崎市御船蔵町で被爆した。中里さんはエンジニアを目指し、12歳で玉之浦を離れ、旧長崎工業学校に進学。戦局の悪化に伴い、工場で路面電車を修繕する日々を送っていた。
あの日は非番で寮にいた。午前11時2分、閃光(せんこう)と爆音。一時、気を失った。がれきに押しつぶされ、左目から大量に出血。火が回った寮を何とか飛び出して走り続け、約3キロ離れた工場の防空壕(ごう)にたどり着いた。
終戦後、左目は義眼となった。31歳で結婚し、3人の子宝に恵まれ、寝る間も惜しんで玉之浦で漁協の仕事に打ち込み、組合長も務めた。
沿岸漁業で活気があった玉之浦に1968年、異変が起きた。汚染された米ぬか油を、それとは知らずに口にした町民が病気や体調不良を訴え始めた。中里さんも体中に直径1センチほどの吹き出物ができ、めまいや神経痛に苦しんだ。移動スーパーが量り売りする米ぬか油を使っていた。子どもたちは疲れやすく学校では保健室に通う日が続いた。
後に原因が判明する「カネミ油症」だった。家族5人は患者認定されたが、同じ油を食べた母は未認定のまま亡くなった。
被爆者としては、何度か語り部を引き受けた。しかし、油症のことは顔、名前を出して語らずに生きてきた。差別や偏見を恐れたわけではない。訴訟の過程で隣近所でも「示談派」と「訴訟派」に分かれ、深い溝が生まれた。話題はタブー視され、口を閉ざさせたからだ。
しかし、核兵器廃絶は見通せず、食の安全を巡る問題も後を絶たない。被爆者、油症患者の高齢化は進む。この夏、記者が「被爆」と「公害被害」を背負った心中への質問を重ねるうちに徐々に心境が変化した。
「原爆も油症もいつどこで誰が被害に遭ってもおかしくはない。この二つ、歴史の“汚点”を体験した生き証人として、死ぬまで語り続けるのが役目ではないか」。家族も納得した。
9日は長崎市で開かれる平和祈念式典のテレビ中継に合わせ、黙とうする。油症の苦しみ、次代への教訓を伝えていく思いもかみしめる。
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【ワードBOX】カネミ油症
1968年にカネミ倉庫(北九州市)製造の食用米ぬか油を摂取した約1万4千人が、皮膚炎や肝機能障害などの被害を届け出た食品公害事件。米ぬか油にポリ塩化ビフェニール(PCB)が混入したことが原因とされる。認定患者は福岡、長崎両県を中心に2322人(3月末現在、死亡者を含む)。長崎県によると、このうち約4割の873人(同)が五島市に当時居住、同県による認定を受けた。